「ノンフィクションの迫力!」  

「シーラという子」と、続編「タイガーと呼ばれた子」をたてつづけに読んだ。
読み応えがあった。
久々の大当たり。

ところで、「シーラ」と「タイガー」では読後の印象が違う。
違和感を感じたのは私だけだろうか?
(1)「シーラ」は1980年、「タイガー」は1995年に出版されたから?
(2)「シーラ」は主人公6歳、「タイガー」は思春期の少女の心理。
これらが原因だろうか?
どうも違う。私自身に原因があるようなのだ。

たてつづけに読んだにもかかわらず私は、
「シーラ」は作者トリイの立場で読み、
「タイガー」は“シーラ”の立場で読んでしまったのだ。
だから、「タイガー」を読んだとき、
『どうしてあなたは中途半端に私の人生に介入したの?』
と、作者トリイに怒ってしまった。
私はどうもシーラになりきっていたようだ。
(もちろん、シーラ自身が実際そう感じた訳ではない)
私が、そう感じただけである。

ノンフィクションでさえ、一人一人読みとり方が違っていて、
そこがおもしろいところかもしれない。
あるいは、私がとんでもない勘違い野郎なのかも。

トリイ・ヘイデン女史のファンから、
「変な読み方をするな!」と言われそうなので、
これでおしまい。

1960年、著者はプラハのソビエト学校にいた。
そのとき、彼女は小学校4年生。
その後、30年の時が流れ、
小学校時代仲のよかったクラスメートを訪ねる旅に出る。

もうほとんどミステリーである。
複雑な東欧事情。
はたして、作者は級友たちに再会できるのか?

作品は3部構成になっている。
第一章「リッツァの夢見た青空」
第二章「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」
第三章「白い都のヤスミンカ」
殊に、第三章がよい。

長い歳月で変化し跡形もなくなるものもあれば、
変わらないものもある。
久しぶりに、良いものを読んだ。
感激。
大杉栄と伊藤野枝の子どもルイズの半生を描いている。
戦中、戦後をルイズはどう生きたか。
大きな事件もなく、
ドラマティックな展開もない。
日常が淡々と綴られる。
それがどうしてこうも感動を与えるのか?

瀬戸内晴美さんの「美は乱調にあり」を読んだときは、
「伊藤野枝ってなんとなくきらい」と感じたのだが、
「ルイズ」を読んで、
「伊藤野枝ってそんな嫌いじゃないかも」と思いなおした。

主人公の成長が昭和史とともに語られる。
何年も前に読んだのだが、
そのときの感動は今でも忘れない。
「これこそ名作中の名作」と友人には宣伝してまわった。

松下竜一氏には個人選集が編まれており、
以下がその概略である。
第一期10巻【現代を生き抜く小説】
 「豆腐屋の四季」
 「潮風の町」等
第二期14巻【本物のノンフィクション】
 「風成の女たち」
 「砦に拠る」
 「汝を子に迎えん」等
第三期6巻【未来を創る物語】
 「5000匹のホタル」等


戦記物というとシリアスな作品を想像しがちだが、
これは「水木しげる作品」である。
作者は南洋の島に出征するが、
朝から兵舎をぬけ出し、現地の部落を訪ねてばかりしていた。
原住民との交流が楽しく描かれている。

作者はこの島で片腕を失っているのだが、
悲壮感とはほど遠い文章である。
昔から、ただ者ではなかったことがうかがえる。
作者は新田次郎氏の奥さんである。
とは言っても、作家としてのデビューは
藤原ていさんの方が先である。
昭和二十年八月九日ソ連参戦の夜から、
言語に絶する脱出行が始まる。
平和な現在、こういう本がもっと読まれてもよいはず。

ところで、「剣道三倍段」と言う言葉を知っていますか?

――武器があるだけに、剣道は最強であり、他の武道が戦うには、

剣道初段に対し、他は三段ではじめて互角という意味だ

                  
(談:大山倍達)

フィクションとノンフィクションは、

空手と剣道の戦いににている。

空手は素手であるため、剣道に勝つには相当な技量を要する

剣道は、最初から刀を持っている為すでに有利なのである。

つまり“刀”とは事実である。   (談:筆者)

(事実と真実は違うけれど---)(談:天の邪鬼)

―――とにかく、ノンフィクションは強いのである。

そして、技量のあるノンフィクションは最強である。